平成7年 交換研修帰朝報告

パリ研修記

滋賀医科大学整形外科
石澤 命仁

 1995年8月末から12月初めにかけてパリの3施設で主に骨・軟部腫瘍の治療を中心に研修させて頂いた。
 家内と4歳の息子を連れて行くことにしたのでジランさんに紹介して頂き、13区のPLACED’ITALIE (イタリー広場) にある近代的なビルの中に入っているSTUDIO形式と呼ばれる食器・家具・台所付きのホテルに住むことになった。地下には大きなスーパーマーケット (その名も “CHAMPION”)、すぐ近くにプランタン百貨店があり買い物にはとても便利だった。このスーパーマーケットには大きなワイン売り場があり種類の豊富さ値段の安さには感動してしまった。支払いは全てクレジットカードで事足りた (しかし日本に帰ってから次々と舞い込む引き落しの通知に真っ青になった)。

 8月31日よりCochin (コシャン) 病院に行くことになった。この病院は17世紀に建てられたPort Royal女子修道院を起源とし、ノートルダムの南2km位の所にある。パリ大学の関連病院のひとつで、特に整形外科とリウマチ科は定評がある。私がお世話になったServiceB (Cochinの整形外科はAとBの2つのdepartmentに分かれている) の主任教授はBernard Tomeno 先生でフランスを代表する骨・軟部腫瘍の専門家の一人である。50代後半位でテリー=サバラスを優しくした様な風貌で非常に親切な先生だった。手術でも外来でもいつも“Bon,bon”と言うのが口癖でHarley Davidsonのオートバイで通勤しておられた。このServiceのもう一人の教授はヴェトナム系のVinh先生で我々日本人に相通ずる東洋的な感覚の持ち主でありやはりとても親切にして頂いた。

 毎朝7時過ぎにホテルを出て、すぐそばのPLACE D’ITALIE駅からメトロ6番線で3つめのSAINT JACQUESで下車、SAINT JACQUES通りを少し歩くとすぐCochin病院に着く。Pavillon Ollier (Ollier病のOllierの名を冠している) が整形外科の建物で6階建てで200床ほどある。この5階にServiceBの病室とOfficeがある。7時半からinterneとchefdeclinique (医長) が毎朝回診する。私はたいてい医長のDr.Anract、研修医Dr.Cottiasの回診についた。“Madame,Vous allezbien?”といった調子でなかなか威勢が良い。8時より毎朝カンフアレンス。前日の予定手術と救急患者の術後を供覧する。20分程で終わり、コーヒーなど飲んで9時前頃から手術が始まる。THAは殆どがprimaryのOAで1時間足らずで終わる。大体一人で2、3例の色々な手術を昼過ぎまでに済ます。手術はA,Bそれぞれ2つずつ4室がフル稼働する。ServiceBは腫瘍だけでなく、人工関節、脊椎、外傷、関節鏡、足の手術・・果ては陥入爪まで何でもやる。隣のServiceAは対照的で殆ど人工関節のみを専門にしている (日仏整形外科学会会長のCourpied先生はServiceAの教授である。また94年夏にAFJOの交換研修で日本に来たDr.WickertがAのinterneとして働いており色々とお世話になった)。手術を終えると昼食は大抵誘い合ってSalle de Gal (救急室という意味らしいが下級医師の食堂である) に行く。これなど個人主義のフランスにしては意外だったが麻酔医 (ServiceB専属である) も誘って一緒に行く。おそらくチームワークを大切に感じているのだろう。この食堂はある医師によると4つ星!で (一応前菜と主菜がちゃんと分かれて出てくる) 丁度ムルロア核実験の直後だったので魚料理が出ると、これはムルロアで拾ってきたのだなどと解説してくれた。この食堂のしきたりは給仕に注文する際は出来るだけ下品に大声を出すことで、また料理がまずい時は皿をナイフでギザギザとこすり、旨い時は一斉にナイフの柄で机をトントトトンと叩いて賞賛する等々、常に大騒ぎになる。水曜日の料理はいつもより豪華でワインも出る。ワインを開ける時はコルクスクリューを使わずナイフで瓶の先のガラスを割コルクを歯で抜くという荒技をつかうのもしきたりである。そして壁面はSEXをテーマにしたとんでもない絵で (しかしBaux Arts、つまり美術学校の学生が描いたと言う力作ぞろいではある) 満たされ異様な雰囲気を醸し出している。私もこの水曜日はかなり飲んで話に熱中してしまい午後にTomeno先生の回診が行われていたのを最初の3週間気付かなかった。また留学生も中国、ハンガリー、カンポジア、ブラジル、ケニアと数多く来ており非常にinternationalであった。

 週に2回Tomeno先生の外来診察を見せて頂いた。骨腫瘍の術後患者を沢山見せていただいたがTHAをはじめ足の手術も得意としておられた。過去、骨腫瘍広範囲切除後の長管骨のmassive allograftによる再建を沢山手がけておられたが、術後5年程経つと高率に骨吸収を生じるということで現在は大腿骨頭の同種骨と自家骨を併用した新しい方法をとっておられ、とても興味深かった。またパンテオン近くのCancer CenterであるInstitute Curieにも連れて行っていただき月2回あるmedical oncologistとのカンフアレンスを見せてもらった。ここでは手術前後の化学療法中の患者について討議するのだがmedical oncologistとの連携はとても緊密であった。

 術前カンファレンスは週2回ある。患者を供覧しながら行われ、各回10例 (つまり週20例以上) はあるが非常にspeedyであった。このカンファレンスでは膝の手術予定で来た患者が実は股関節が悪かったのが露見したり、麻酔医がリスクが大きいと麻酔を嫌がるなど日本と同じ様な状況が数多く見られ面白かった。

 月曜の午後にはA,B合同のカンファレンスがあり5人の教授の症例供覧や講義が行われていた。Courpied先生もよく症例を見せておられたがそのオーバーなジェスチャーはフランス人の中でも際立っているらしく、皆よくCourpied先生の真似をして楽しんでいた。Courpied先生には何度か夕食をご馳走になるなど色々と大変親切にして頂いた。こうして6週間のCochinの見学を終えた。

 2番目の訪問先はPLACE D’ITALIEからメトロ7番線で4つ目のパリ南郊にあるKremlin-Bicetre病院である。初日の朝、私をカンファレンス室に案内してくれたのはDr.Missenardであった。この先生はDubousset教授のお弟子さんでprivate hospitalであるClinique Aragoの医師だが、BicetreとInstitut Gstave Roussy (パリ最大のcancer center) の非常勤医師でこの2カ所で集めた骨・軟部腫瘍患者を手術している。特に骨盤外科が得意でその手術の内容、症例の多さには本当に驚くばかり (Bicetreの初日に、いきなり骨盤軟骨肉腫の股関節関節包外切除・同種骨盤による再建術を見せてもらった) で、日本ではとても考え及ばぬ仕事内容であった。Missenard先生の大腿骨遠位部の関節包外広範囲切除・腫瘍用人工膝関節による再建術は何と3時間 (切除1時間、再建2時間) であった。Missenard先生にはその後Bicetreでの手術のみならずパリ近郊の胸部外科専門病院 (Pancoast肺癌の胸椎転移の手術)、モンパルナス駅近くの私立病院 (骨盤内の軟部MFHの手術を助手なしでこなしておられた)、本拠地であるClinique Arago (整形外科医4人の小さな施設なのだがここで大腿骨骨肉腫の関節包外広範囲切除からTHA、TKA、脊堆のinstrumentationまで大抵のことはやる)、Gustave Roussy (病理診断、画像診断などはここにconsultする。化学療法もここで行なう) など色々な病院へ連れて行ってもらい手術を見せて頂いた。主任教授のNordin先生は人工股・膝関節、外傷などを専門としておられ、ここで使用されるPVL (Paris-Vallee de la Loir) 人工関節の開発にもたずさわっておられた。またBicetre滞在中、部屋を使わせて下さったGagey教授はとても気さくな人物で、独特な人工肩関節の開発者であった。5人の子供があり夏のバカンスには家族でシャモニに行き登山を楽しんだりしておられた。バカンスなくして仕事を続けることなどとても不可能だと言っておられたのが印象的だった。

 11月の初めにSOFCOTに出席したあと11月半ばより最後の訪問先、St.Vincent de Paul病院に通った。パリ天文台を挟んでCochin病院から数100mの所に位置する小児専門病院で整形外科も小児のみを治療する。Dubousset教授で有名だが、主仕はDubousset教授ではなくSeringe教授という股間節の専門家である。この二人の二頭立ての様な教室運営になっていた。Dubousset教授の外来は驚きの一語に尽きる。50人位の患者を休みなしで朝から夕方までかけて見るのだがまず見学者がと ても多く、米国、カナダ、ベルギー、アルジェリア、サウジアラビアと、やはり世界に名を馳せたこの先生ならではという感じだった。50人の内訳は半分が側彎、悪性腫瘍の患肢温存術後が5、6人さらにその他の小児疾患といった具合であったが随所にDubousset先生のアイディアが見られた。またDubousset先生についてInstitut Gustave Roussy (ここの非常勤医師として小児の悪性骨・軟部腫瘍を診ておられる) の外来・回診も見せて頂いた。Kalifa教授という小児腫瘍内科の女医さんと一緒に外来をみておられ、症例の多さのみならずチームワークの良さに驚いた。Dubousset先生は日本では脊椎のinstrumentationのみで有名だが実はフランスきっての骨腫瘍専門医でもあるのだ。 こうして3カ所を見てわかったのは良くも悪しくもフランスの整形外科医は殆ど手術のみに専念しているということで、我々とはおそらく桁違いの手術症例を経験しているらしく、手術が非常に上手だということである。その背景にはrheumatologist,oncologistなどとの合理的な分業がうまく出来ていることと、専門医の教育システムの良さがあると思う。日本式の専門医教育、遅れた分業にも手術のover indicationが少ないことなど良い面があるというよく言われる詰も多少実感できたが、フランス式分業はこと手術に関してはそれを補ってあまりある効果を生んでいると思う。

 私が滞在したのはムルロア核実験 (テレビのニユースではさらりと流れただけであっさりしたものだった)、アラブ原理主義活動家による爆弾テロ (Bicetreにはサンミッシェル事件で負傷した患者が入院していた) などがあった物騒な時期だったが誰もあまり意に介さない様に見えた。多くのフランス人は目の前で爆弾が破裂するまでは気にならないのだ、と言う人もいた。病院見学の合間には (実はこの滞在のもう一つの目的だった) パリ中いたる所で開かれる音楽会にもよく足を運んだ。特にあちこちの教会で頻繁に開かれるオルガンの演奏会は素晴らしく、かのMarie-Clair Alainの演奏を無料で聴くことができた。マドレーヌ寺院でのオルガンで演奏されるLa Marseillaiseも華麗だった。シャンゼリゼ劇場・サルプレイエルなどの老舗のコンサートホールは椅子が壊れていたりするなど今や日本の津々浦々にある立派なホールと比べるとやや貧相な面もあるがそのプログラムの充実ぶりと独特のややザワザワとしてリラックスした雰囲気はパリならではのものと感じた。バスチーユのオペラは日本人客が多く何と日本語の場内アナウンスまであった。これも「円」の力のなせるわざであろうか。勿論、メトロに乗るだけでもアコーデオンをはじめとする様々なstreet musicianの演奏を楽しめた。またAmien (一昨年、AFJO交換研修で日本に来たDr.Renauxが招待してくれた)、Tour,Chamonix,Niceなど週末を利用してついつい子連れで東奔西走してしまったが様々なフランスの表情に触れることができた。

 最後にこの様な素晴らしい経験をさせて頂くことが出来、七川会長はじめ日仏整形外科学会役員・会員の諸先生方、色々ご面倒をおかけした潮本先生、ジランさんに改めて感謝の意を述べさせて頂く次第である。

Cassini通の写真土星の環にその名を残すCassiniゆかりのCassini通りにて。
右後方はCochin病院。
この通りを西に行くと
St.Vincentde Paul病院がある。

平成7年度日仏整形外科学会交換研修を終えて

広島大学整形外科学教室
安永 祐司

 平成7年12月4日から3カ月間のフランスでの股間節外科研修を終えて無事帰国いたしましたので、報告させていただきます。
 まず最初の6週間はリヨンに滞在し、Clinique MutualisteのCartillier先生とClinique Emilede VialarのCaton先生にご指導いただきました。

 Cartillier先生は7名のフランス整形外科医からなるArtro GroupのオリジナルであるCorail (珊瑚の意) というHA coated prosthesisを1986年から使用されており、術後9年で95%の生存率を維持されています。手術進入法は側臥位で大転子は切離せず、年齢と性別によって後方進入と前方進入を使い分けておられました。残念ながら今回は見ることはできませんでしたが、やはりオリジナルのOctopusというrevision用のcementless cupもお持ちでした。Caton先生は1979年からCharnley型THAを開始され、すでに3,000例の臨床経験をお持ちですが、プロステーシスはCharnleyのオリジナルではなく、カップのセメントスペーサーやモデュラーネックなどを加えてフランスで製造したものでした。その手術手技で特筆すべき点は術野に直接手で触れないNon touch techniqueであり、出血量も少なく、概ね65分で終了するたいへん美しい手術でありました。プロステーシスは異なるものの、お二人の手術は非常にsystemicで、そのため手術器械も少なく手術時間も短時間であり、THAの手術はかくあるべきと強く感じました。

 リヨンでは両先生に加えて名誉会長のPicault先生、副会長のKohler教授、Lorge先生、Chassard先生、Girin夫人にはたいへんよくしていただきました。本学会の本拠地だけにそのhospitalityはこのうえないものであったと感謝いたしております。また、Kohler教授はリヨンを発つ前に私に発表の機会を作って下さり、寛骨臼回転骨切り術に関する基礎的研究と臨床成績について皆さんの前で発表させていただき、多くの質問を受けたことは良い経験となりました。ちなみにこの基礎研究は渡仏前にArchives of Orthopaedic and Trauma Surgeryに投稿していましたが、帰国時にacceptの通知がとどいており、先生方へのお礼の手紙にこのことを付け加えることができたことは幸運でした。

 残りの6週間はパリ第6大学の付属病院であるHopital Cochinでの研修でしたが、Merle d’Aubigne教授やPostel教授を輩出し、年間600例 (primary 400例 revision 200例) のTHAをこなす病院でフランスを代表するHip centerといって過言ではないと思います。ここでは会長であるCourpied教授と同整形外科の主任教授であるKerboull教授にご指導いただきました。プロステーシスはオリジナルよりもステム長を長くし、頚体角を減少させたCharnley-Kerboull型で、Kerboull plateというサポートリングを使用した再置換を多数見せていただきました。再置換では冷凍保存した骨頭を1ないし2ケ使用していましたが、時にMassive bone allograftも必要で骨銀行の重要性を再認識しました。また、Courpied教授はCharnley型THAにおける大転子偽関節防止のために中殿筋と外側広筋の連続性を保つ大転子骨切り、すなわち、Digastric approachを常用されていましたが、再置換術においては特に有用な方法であると思いました。CochinのTHAはテクニック的には決して新しいとは言えませんが、長い伝統とそれに伴う良好な長期成績に裏付けられた確実なテクニックであると感じました。

 フランスの股間節外科の特徴としては、成人の股関節の機能再建に対して骨切り術は全くといっていいはど行われないこと。THAのプロステーシスに関してはセメントタイプとセメントレスタイプの割合はほぼ互角、輸入されたプロステーシスをそのまま使用することはなく改良を加えたりオリジナル (フランス国内に100種類以上あるそうです) を使用していること、整形外科の歴史がある国だけあってまだ日本に輸入されていない有用な手術器械が多数あることなどがあげられるかと思います。

 この3カ月間に日本にいては決して得ることができない股間節外科に関する知識を得、多くの師や友人を得ることができたことは私にとって一生の財産になるものと確信いたします。今後もこの交換研修がさらに充実することを切に願うと同時に、本学会の一員として私も微力ながら協力させていただきたいと考えております。最後にこのような有益かつ貴重な研修の機会を与えていただいたCourpied会長、七川会長はじめ日仏整形外科学会の諸先生方に重ねて御礼申し上げます。

左からDr.Cartillier、私、Dr.Caton、Dr.Chassard
(リヨンの日本レストラン “さくら” にて)
Prof.Courpiedと私 (Hopital Cochin)