平成18年度 交換研修帰朝報告

奈良県立医科大学 整形外科
城戸 顕

1. はじめに。
 私は平成18年8月31日よりパリ市内のパリ第五大学医学部の付属病院にあたるコシャン病院の整形外科Bのアンラクト教授のもとに2ヶ月間滞在し腫瘍の外科を中心に研修させて頂きました (写真1)。同病院にはこれまでもこの交換プログラムに参加した多数の先生方が整形外科A,Bでの研修を受けられ,或は近隣の施設での研修時のパリ市内の宿舎として滞在しておられます。同病院の立地やケルブール等、同病院が輩出した数多くの偉大な先達については既にこの交換プログラムに参加された諸先輩方の帰朝報告をお読み頂ければ幸いであります。
 同病院の整形外科にはAとBの独立した二部門があり、診療領域にはこれといって明らかな区別を持たず、関節外科から外傷まで幅広く診療が行われています。只、腫瘍の外科は整形外科Bのみで行われているとの事でした。私が渡仏する数週間前に丁度整形外科Bの部長が交代され、先代部長である腫瘍外科の大家ベルナルド・トメノ教授は引退して非常勤に移り、あらたに弱冠45歳のフィリップ・アンラクト教授が新部長に就任され采配を揮っておられました。アンラクト教授はホンダの大型バイクで毎日出勤、車はトヨタのランクルと日産のマーチ、柔道は黒帯という親日家で、トメノ前教授と同じく腫瘍外科領域でも素晴らしい業績を挙げておられます。また、小生の渡仏10日前には第四子が誕生なさったとの事、小生のシャルルドゴール空港到着時にはご長男を出迎えに待たせて下さり、滞在中は何かと細かく気を配って下さいました。

写真1 手術場にてアンラクト教授と

2. 幸運であったことに。
 私にとって非常に幸運であった事は、平成16年度に本交換プログラムのフランス側からのフェローとして福岡の総合脊損センターに滞在したブリス・イラレボルド医師が若手リーダーの一人として小生の滞在した整形外科Bに勤務していた事です。渡仏まだ間もない頃、昼飯抜きで長引いた手術の後など早速飲みに誘ってくれ、旨いアントレコートをさっと御馳走してくれた流石にスマートなこのパリっ子は、メイヨ・クリニックに基礎研究の留学経験もあり日本の事情にも詳しく英語堪能頭脳明晰容姿端麗の三拍子揃い踏みで、何かと世話を焼いてくれ、小生には心強い限りでした。同じく若手リーダー格の腕白者 “会計” マックアントワヌ・ルソー医師、小生が同室に机を頂き朝のコーヒーとクロワッサンを良く御馳走してくれたカメル・アジョイ医長、誰よりも早く自宅に招待してくれた松濤館空手の有段者アレクサンドル・ミレー医長、この30歳前後の活動的な4人は特に仲良く小生に接してくれ、快適な滞在生活を送る事ができました。
 またアンラクト教授の計らいで、隔週ごとにコシャン病院と隣接する癌センターのキュリー研究所とで交互に行っている腫瘍学カンファレンスに参加させて頂く他、パリ南部に位置するパリ第11大学ビセトル病院のクール教授、コシャンに隣接するアラゴクリニックのミセナール医師の手術も見学できるよう段取りして頂いた事、これらもまた幸運なことでありました。

写真2 掟通りワイン抜きを使わず開栓するルソー医師

3. 宿舎のこと、そして食堂には掟。
 整形外科、小規模救命センター、それに熱傷病棟の入っているオリエール棟という6階建ての建物の最上階の隅にシャワー、トイレを備えた簡素な部屋があり、滞在中はこの部屋に居候させて頂きました。以前は整形外科の研修中の医師がこの部屋に住み込み、食事も後述する若手医師用の食堂で済ませ、つまり専門医までの卒後5年間(内科系は4年間)の研修期間を院内で暮らせる様にと備えられた施設ですが昨今では、若い先生も皆、院外にアパートを借りて暮らしているとの事、従ってこの部屋は現在、ゲスト用の部屋として専ら利用されているようです。5階の患者病室の前を病棟の隅まで通り抜け、管理通路のような狭い屋根裏階段を上って行き来せねばならぬこの部屋は、最上階とあって長い西日でとても暑く、9月初旬でも午後9時過ぎまで入れたものでは有りません。どちらかというとかなり手狭で余り清潔とも云えず、先に滞在された日本人フェローの先生が自腹を切って残されたテレビ、コンロなどになんとか快適に過そうとした先達の工夫の跡が忍ばれます。しかしながら物価がこの上なく高いパリの事情を鑑みるに、こういった宿泊/食事施設を無償で利用して長期の研修をパリ市内で受けさせて頂ける事はやはり云うまでも無く有り難い事であります。直訳すると当直医食堂とでもなるサルドギャルドは若手医長も出入りしますが主としてこの5年間を終了するまでの若手医師用の食堂で、朝、昼、夜を問わず食事をとる事が出来ます。この食堂にはフランスの医学部で先輩たちから代々受け継がれているという幾つかの掟があり、曰く1)向かって右から順に詰めて席につくべし。2)後から来たものは先に座っているもの全員の肩を右から順に軽く叩きこれを挨拶とすべし。3)ワインはコルク抜きを使わず食事用ナイフを上手に使って瓶口を割って開けるべし (写真2)。4)食事中はフランス語以外話すべからず。5)患者や仕事の話は最後のコーヒーが出るまで決してするべからず、等など。この食堂内では教授を超える絶対の権力を以て君臨しエコノム! (会計?幹事?) と敬意を持って称えられる先述のリーダー格のルソー医師は毎月各科リーダー格の医師から幾ばくかの金額を徴収しており、これを金曜のみ昼食に供される “シャトー・コシャン (!?) ” ワイン代に充てていた事が強く印象に残ります。この腕白もUCSFの留学経験を持ち卒後5年にして5つの英語論文の主著者、10論文の共著者で、未来のパリ大学教授を目指す秀才であった事を補足します。

写真3 知る人ぞ知る腫瘍外科の名手ミセナール医師の神業的手術 (アラゴクリニック)

4. 日課、そしてこの交換研修で何を学ぶのか。
 毎朝A,B部門合同で7時45分から前日の外傷症例報告、8時からB部門の会議室に移り前日の術後報告 (毎日が手術日です)、8時半から執刀開始、火、金の午後は術前カンファ、隔週月曜の合同腫瘍カンファが主とした日課です。私は手術症例はアンラクト教授、トメノ教授の腫瘍の症例、 新たにコシャンで大転子骨切りを工夫したという人工股関節置換術などに沢山入らせて頂きました。これまでに滞在された中にはこちらでまず語学学校に通われ、或は原則3ヶ月の研修期間を半年、一年と延長し研鑽を積まれた先生方もいらっしゃるとの事で、その努力と向学心には頭が下がる思いがします。ここで交換研修の選考委員の諸先生のお叱りを覚悟で書くならば、しかしながら応募年齢上限ぎりぎりの私は、この度の渡仏は、諸先輩型より志し一層ひくく、もとより僅かな期間での、しかも非英語圏での臨床留学を、細かな技術を身につけるインテンシブなトレーニングにする事や、或は細かく症例を検討して論文にするといった“成果を出す”形の滞在にするのは到底不可能であると割り切り、所謂いい年をしたポリクリとして、彼らがどう考えどう手術を進め診療をしていくのか、その空気を楽しむ事に専念しようと決意しておりました。
 ただ手術だけは、助手をする以上手術器械の名称だけは素通りする訳にもいかぬと怠け者の小生もかなり奮闘しました。筋鈎、鉗子、摂子の類いです。日本で余り見かけぬ器械も結構あります。大きいの、小さいの、有鈎無鈎、自分の手袋のサイズ、いろいろ看護婦さんに云えないといけません。仏語です。この点は大分勉強いたしました。セットエデミッと叫ぶと7.5の手袋が出てきます。アンコルフォアとお願いするともう一組出してくれます。ガウンの紐の閉め具合を訊かれてもいつもセボンセボンです。術者が大きな声でアンシジョンと叫んで手術開始,相づちはボアラです。やばめの失敗は迷わずデソレと謝ります。サバ?には即サバ!昼過ぎに別れるときはボナプレミディであなたもパリ語ペラペラです。適応の是非を含め、色んな意味で一番印象に残った症例を提示します (写真3)。大腿骨骨肉腫。骨外浸潤は有りません。執刀は腫瘍外科の名手ミセナール医師 (アラゴクリニック)。驚くほどの手際の良さと出血の少なさで大腿骨全置換を行い同種骨で再建、術中要所要所に秘訣を説明して下さいます。

5. フランスは、そしてパリの町は。
 余り予備知識無く飛び込んだフランスは、そしてパリの町は、かつて縁あって数年間滞在していたゲルマン語圏で抱いていた印象とは随分かけ離れた、非常に人情にあふれるあたたかい土地でした (写真4)。若干年を喰って日本から押し掛けてきたこの交換フェローと親しく接してくれた全てのパリッ子の同僚たちに、そしてこの留学の機会を与えて下さいました日仏整形外科学会の小野寺敏信会長、滞在先の決定にあたりお世話頂いた同じく本学会の瀬本喜啓先生、藤原憲太先生への感謝の辞を持ってこの稿を終えさせて頂く事に致します。ありがとうございました。

写真4 カメル医長、学生たちと
パリ大学医学部の学生の75%は女性だそうです。